フレンチレストラン、ティールーム、マッサージセンター

Patrice Julien

目次

Patrice Julien
Patrice Julien

パトリス・ジュリアン

私は日本・宮津に暮らし、ここで仕事をしています。私の活動の根底にあるのは、常に変わらない一つの探求です。それは、よく生き、よく食べ、よく住み、そして「今、ここに在る」ということに深く在ることから生まれる、素朴で確かな幸福です。

メゾン・ジュリアンは、その探求の具体的な表現の一つです。料理とおもてなしの場であると同時に、古い建物の佇まい、素材、時間の流れ、空気感を大切にしながら再生された、生きた家でもあります。ここでは、光、静けさ、迎え方、所作—— その一つひとつの細部が大切にされています。なぜなら、心地よさは宣言するものではなく、感じられるものだからです。

私のすべての活動は、『Sekatsu wa Art(生活はアート)』—— 日常の中にある生き方そのものを問い直す一冊の書—— の延長線上にあります。この本は、日々の暮らし、食、住まい、そして生の意味をもう一度結び直したいと願う人々にとっての一つの指標となってきました。

この考え方は、日本の「衣・食・住・すべて」という感覚と自然に響き合います。身にまとうこと、食べること、住むこと、そしてそれらをつなぐすべてが調和してこそ、人の暮らしは健やかになる——私はそう考えています。

料理は、その中心にあります。表現や技術のためではなく、心を向け、受け継ぎ、つながるための行為として。食べさせること、迎えること、人が自然にくつろげる場をつくること。それらのささやかな営みこそが、私にとっての「本当の幸福」と「よく生きること」の核です。

レストランの活動にとどまらず、私の仕事は、都市や地方の空間の再生、生きた文化財としての建物の保全、そして人が実際に使い、暮らし、集うための場所づくりへと広がっています。住宅、商いの場、飲食店、出会いの空間—— それらはすべて、より穏やかで、より誠実で、より生き生きとした暮らしを支えるためにあります。

このページは、ブログでも自己紹介の場でもありません。時間の流れとともに、この同じ思想から生まれた活動や思索、取り組みを
静かに共有していくための場所です。メゾン・ジュリアンは、概念ではありません。実在する場所です。幸福が、料理され、住まわれ、分かち合われる場所です。

Patrice Julien
Patrice Julien

ライフスタイル

生きることは本当にアートなのか?— 注意という技術について

「アート(art)」という言葉は、ラテン語に由来し、
もともとは「技術」や「熟練」を意味していました。

そう考えると、
生きることがアートであるというのは、
人生を美しく演出することではなく、
どのように関わるかという「技術」に近いものです。

その中心にあるのが、「注意(attention)」です。

私たちは同じ一日を、まったく異なる質で生きることができます。
急いで飲み込むように過ぎていく一日。
あるいは、一瞬一瞬を味わいながら進む一日。

ファストフードのように消費される体験。
あるいは、丁寧に用意された料理をゆっくり味わう時間。
違いは出来事ではなく、
そこにどれだけの意識があるかです。

注意とは、良い悪いを選ぶことではありません。
ただ「そこにいる」ということです。

気がそれてもいい。
注意が途切れても問題ではありません。

大切なのは、それに気づくことです。

私たちはしばしば、現実の表面をなぞるように生きています。
けれど同じ現実は、より深く触れることもできる。

その深さは、どこか特別な場所にあるのではなく、
すべての瞬間の中に開かれています。

一口の食事。
ひとつの会話。
ひとつの呼吸。

それぞれが、白紙のページのように広がっています。

もし生きることがアートだとするならば、
それは何かを美しく作ることではなく、
この静かな技術――
一瞬一瞬に、意識的に出会うことなのかもしれません。

ライフスタイルという言葉について(少しだけ語源から)

「ライフスタイル」という言葉は、いまや当たり前のように使われています。
けれど、その意味を少し遡ってみると、意外と静かで本質的なものが見えてきます。

まず「ライフ(life)」という言葉。
古い英語 līf に由来し、「生きていること」「続いているもの」を意味していました。
単なる状態ではなく、流れや持続を含んだ言葉です。

次に「スタイル(style)」。
これはラテン語の stilus、つまり「書くための道具」に由来します。
そこから「書き方」、さらに「表現の仕方」、そして「あり方」へと意味が広がっていきました。

この二つが合わさった「ライフスタイル」とは、
本来「生の流れがどのような形をとるか」ということです。

しかし現代では、この言葉はしばしば外側の要素に還元されがちです。
空間の演出、持ち物の選択、あるいは視覚的な印象。

それらも一つの表現ではありますが、
本質はもう少し内側にあります。

どのように時間を使うのか。
どのような質で人と関わるのか。
何気ない行為に、どの程度の意識が通っているのか。

スタイルとは、本来「無意識に現れる書き方」です。
それは飾るものではなく、滲み出るものです。

そう考えると、ライフスタイルとは
選択されたイメージではなく、積み重なった現実そのものと言えるでしょう。

そして時に、最も静かな選択が、最も深いスタイルを形づくります。

ユートピアと現実のあいだで

「ユートピア主義者は現実の世界に住んでいない」と言う人がいます。
便利な言葉です。夢を見る人たちをガラス箱の中にしまい込み、電気代や工事の遅れといった“現実”から切り離しておけるから。

それでも――
可能性の線を動かしてきたのは、ほとんどいつもユートピア主義者たちです。

今の街を見てください。
緑の屋上、パッシブハウス、夏でも熱がこもらない自然光の設計…。
25年前なら「建築家の気まぐれ」と笑われていたものが、今では当たり前になりました。

メゾン・ジュリアンも、ひとつのユートピアです。

外から見れば、少しやわらかな狂気のように見えるかもしれません。
日本のミニマルな美しさと、フランスの家庭の温もりを融合させること。
そして、本来なら無機質な新築に置き換えられていたかもしれない一軒の家を、あえて蘇らせること。

その結果はどうか。

ただ美しいだけではなく、呼吸の仕方が違う空間。
訪れた人が数分でふと口にする言葉――
「こんなふうに心地よく“家”でいられるって、あり得るの?」

ユートピア主義者は、いつも勝つわけではありません。
けれど彼らは種を蒔きます。
後になって現実主義者たちが「当たり前だった」と言いながら水をやる、その種を。

1890年、空を飛ぶ機械を笑っていた人たちが、
20年後には飛行機で家族に会いに行っていたように。

そう、ユートピア主義者は少し厄介です。
想像しにくいことを語り、紙の上では非現実的に見えるものをつくる。
でも、彼らがいなければ現実は、古びたパジャマの中で静かに停滞するだけでしょう。

次のユートピアへ。
少しだけ現実の想像力をくすぐってみましょう。
それが、進化のきっかけになるのだから。

Patrice Julien World
Patrice Julien World

食と住まい

環境と生き方について

人生のあらゆることは、注意――つまり「存在していること」に関係しています。
それは美しさや良し悪しの問題ではありません。

生きるということは、本来とても感覚的な体験です。

平らな道、上り坂、下り坂。
同じ「歩く」という行為でも、身体の使い方はまったく異なります。
筋肉の負担も、神経の働きも、心理的な感覚も変わります。

このとき私たちは、環境が自分に与える影響を直接感じ取っています。
疲れやすさの違いにも、自然と理由がわかります。

けれど、家に帰ったときはどうでしょう。

慣れ親しんだ空間もまた、環境のひとつです。
そしてそれは、同じように私たちの身体や神経、心理に影響を与えています。

小さな部屋と広い部屋。
低い天井と高い天井。
壁の色、光の入り方、空気の流れ。

私たちはそれらを意識しなくても、日々その影響を受けています。
そしてそれは、気づかないうちに自己イメージにまで及んでいきます。

たとえば――
城とスラム街で、同じように生きることはできるでしょうか。

それがすべてを決めるわけではありません。
けれど、環境によって感じ方が変わることは確かです。

では、住まいをつくる人たちは、何を基準にしているのでしょうか。

生活の質でしょうか。
それともコストや効率でしょうか。

中国の伝統医学では、食べ物は薬として扱われます。
それと同じように、私たちは住まいを考えているでしょうか。

自然の中を歩いたときの感覚を思い出してみてください。
身体がゆるみ、呼吸が深くなるあの感じ。

環境は、私たちを癒すこともあれば、
静かに消耗させることもあります。

だからこそ、問われているのは
何を選ぶかではなく、

どれだけ気づいているか。

すべては、注意の中で起きています。

一皿のリスク

Maison Julien のメニューは毎日変わる。
いくつかの料理は繰り返される。
それは私の柱のようなものだ。

しかし、私を最も興奮させるのは
その柱と柱のあいだにある未知の領域である。

このやり方はリスクを伴う。
私はほとんど実験をしない。
いつも本番だ。常にライブ。

それが私を生かしている。

即興の料理。
敏感で注意深いお客様には、それが伝わる。

これは戦略でも哲学でもない。
ただ、流れの中で生きるということ。

決して楽ではない。
むしろ良い意味での緊張だ。

F1 のコーナーを曲がる瞬間のように。
塩、香辛料、火加減、
火入れのタイミング、味の重なり。

すべてがひとつまみの差で決まる。

そして不思議なことに、
それはほとんどの場合、ぴたりと合う。

その瞬間、
命の流れがテーブルに届く。

太陽が昇るように自然に。

そこにはもう
料理人も、客も、Maison Julien もない。

あるのは、ただ
「感情」だけだ。

住むこと ― 聖なる場所が教えてくれること

どの文化においても、聖なる場所を訪れると、ある共通点に気づきます。
それらはたいてい、自然と敬意と注意を促す空間であるということです。
豪華であれ質素であれ、その建築には意識のこもった意図が感じられます。
偶然に見えるものはなく、すべてに意味があり、心を養うためにつくられています。

私の文化圏では、教会や大聖堂は、調和、均衡、対称性、秩序といった原理に基づいて建てられてきました。
それらは宗教を超えて、人の心に語りかける力を持っています。
しかし、こうした在り方はキリスト教に限られたものではありません。
世界中で多くの人を惹きつける場所の多くは、やはり聖なる場所です。

それにもかかわらず、人間が当然のように受け入れている「聖」と「俗」の分断には、違和感を覚えます。
目に見えない存在に向けて建てられた精神的な建築物には細心の注意が払われる一方で、
目に見える人間が実際に暮らす家は、同じ配慮や尊重を受けていないことが少なくありません。

住むこと ― 見えない「生きた宝」の記憶

「生きた宝(人間国宝)」という言葉を初めて耳にしたのは、日本でした。
それは多くの場合、芸術や工芸、時には思想の分野において、
ひとつの才能を極限まで磨き上げた人々を指します。

不思議に思うのは、こうした無形の価値を大切にしてきた国でありながら、
そうした「生きた宝」たちが築いた建物が、
今日もなお、静かに姿を消していくという現実です。
名もなき職人たちによってつくられ、
すでにこの世を去った人々の手による住まいが、です。

宮津では、その文化を支えてきた記憶の痕跡が、
少しずつ消えていくのを日々目にしています。
使われなくなった家々は、
役目を終えたからではなく、
住まわれなくなり、そして愛されなくなったことで、
静かに壊れていきます。

受け継がれてきた住まいを愛さなくなったとき、
文化は少しずつ均衡とアイデンティティを失っていくのではないでしょうか。
そのとき、次の世代に何を残し、
何によって「根」を感じてもらえるのでしょうか。

沈黙に住む

私たちは、音の中で生きることを知っている。
言葉、情報、説明、絶え間ないやりとり。
しかし、沈黙に住むことは、ほとんど学んできていない。

沈黙は空白ではない。
すでに満ちている。
ただ、何も求めてこないだけだ。

ここでは、時間がゆっくりになる。
待つことがあり、間(ま)があり、
何も起こらない瞬間がある。

そして、そこで何かが現れる。
場所ではなく、
それをどう生きているかが。

沈黙は照らし出す。
自分自身との関係、
隣にいる人との関係、
そして空間との関係を。

人を困らせるのは沈黙ではない。
沈黙が映し出すものだ。
何もすることがなく、
何も語ることがなく、
何も埋めるものがないときに。

沈黙に住むとは、
理想の平安を探すことではない。
ただ、そこにとどまること。
逃げずに。
付け加えずに。

そして、
場所と、時間と、
存在そのものに
委ねること。

日々の気づき

自然は無理をしない

私たちはここで初めての冬をすでに経験していました。
そのときも雪は降りましたが、「寒いけれど、思っていたほどではないね」と話していました。

しかし今年は違いました。
本当の雪でした。
庭のすべての木や植物が、まるで飲み込まれたかのように覆われてしまったのです。

Maison Julienの駐車場を確保するために、
お客様が車を停められるようにするには、
二人で何時間も雪かきをしなければなりませんでした。

冬のあいだ、どれだけ前向きでいようとしても、
天候の重さは身体にのしかかってきます。

実際、人間はますます自然のリズムから離れてしまっています。
すべての生命は、本来、自然のエネルギーのリズムと調和して生きています。
かつての人々もそうでした。

収穫の季節が終わると、
春を待ちながら、自然に休息へと入っていったのです。

しかし現代の都市生活は、
その流れを均一化し、
私たちを「常に動き続ける存在」に変えてしまったかのようです。

まるで「超人」になったかのように。

けれど、それは幻想です。
そしてその代償を、私たちは確実に払っています。

常に「ピークパフォーマンス」を目指し続けることで、
身体も心も過剰に使い、
かえって弱くなっていくのです。

自然には自然の法則があり、
それは私たちにも等しく働いています。

今日、庭を見渡すと、
そこには内側から流れる自然のリズムに従った世界があります。

植物も木も、再び立ち上がりました。
いくつかは力尽きましたが、
ほとんどすべてが今、満開に近い状態にあります。

そして、どの木も、どの草花も、
どんなに小さな存在であっても、
生きるために
マニュアルや哲学書を読む必要はありませんでした。

ただ、いのちがそのまま、花開いているのです。

日常の洗練という静かな抵抗

2026年2月13日、金曜日。
神戸オリエンタルホテルでのバレンタイン・イブ。

どこか懐かしさを帯びた、洗練された空間。
130名が集ったテーマは、今では少し珍しくなった言葉 —— エレガンス。

音楽。
ダンス。
料理。
美しさ。
そして、敬意。

機能性が優先される時代の中で、
洗練を楽しむ感覚は静かに薄れつつある。
私たちは気づかぬうちに変化している。

早く動くために服を選び、
早く食べ、
ゆっくり味わう力を失っていく。

一着を丁寧に選ぶこと。
その瞬間を特別な機会として生きること。

それは見栄ではない。
背筋を伸ばすことだ。
呼吸を整えることだ。

瞬間が尊いのは、儚いからだと思い出すこと。

Maison Julien Miyazu もまた、
人生の「質感」を思い出させる場所でありたい。

「そのままでいい」という言葉が、
知らぬ間に味覚も感覚も鈍らせてしまう時代に、
やさしく抗うために。

日常の洗練は贅沢ではない。
それは、生きるための静かな覚醒である。

欲望を語らない文化

日本の夫婦が抱えやすい問題は、衝突よりも沈黙かもしれない。
声を荒げない。
裏切らない。
しかし、触れ合わなくなる。

そこには劇的な崩壊はない。
だが、静かな麻痺がある。

日本社会は「責任」に強い文化だ。
しかし「欲望」について語る文化ではない。
欲望はどこか恥ずかしいものとされ、表に出さないもの、家庭の外で処理されるものになりやすい。

その結果、夫婦の内部で扱われることは少ない。
だが、欲望は消えない。
文化的に抑えられても、生物学的には残る。

ここに、ひとつの文化的特徴が浮かび上がる。

欲望を語らない文化

問題は欲望そのものではない。
それを無視し続ける構造にある。

日本の夫婦が抱える危うさは、爆発ではなく乾燥だ。
刺激を求めて外へ向かう人もいる。
しかし多くの場合、刺激そのものよりも、「見られていない」という感覚のほうが深刻である。

相手が家族になり、
家族が役割になり、
役割が義務になる。

義務は安全だ。
だが、安全は必ずしも魅力ではない。

仕事と暮らしのバランス

私たちは、週に三日間レストランを閉めることにしました。
呼吸を取り戻すために。
アイデアが自然に湧いてくる余白をつくるために。
そして、日々の営みが心地よいものであり続けるように。

この三日間は、ひとつの呼吸です。
プレッシャーはありません。
時間は静かに流れます。

それでも、いくつかやることを書き留めています。
時間を埋めるためではなく、
気持ちが散らばらないようにするために。
どれも急ぎではありません。

やるときはやる。
やらないときはやらない。
選ぶのは現実です。

前から気になっていたパンのレシピがありました。
今朝、朝食のときに、
「あ、今日だ」と感じました。

七時少し前にスタート。
発酵はほぼ一時間半。
焼成は三十分。

待つことが、ちゃんと報われました。